『もしドラ 感想文』で検索すると、結構最初の方にヒットするみたいで、おそらく、宿題の参考に、というニーズがあるのかな、なんて想像しております。
参考になったかどうかはわかりませんが、読んで下さる方がいる以上は、気を引き締めて書いてみたいと思います。
(所有している本の挿絵をデジカメで撮影したものを掲載しています。)
前回の感想文から、早いものでもう4か月が経過しようとしています。
その間、ブログの更新は一切ないというテイタラクでしたが、本業が忙しかったので致し方ありません。どうかご勘弁ください。
それにしても、『もしドラ』は、読み込めば読み込むほど、新たな解釈とか、登場人物の気持ちの変化とか、いろんな見方が出来る物語です。
新たな発見(あら探しとは言わないでおきます)も出てきます。
前回、まとまらなかった部分はまた書きます、という、中途半端な予告みたいな事を書いたので、
またまた、読書感想文的なものを書いてみます。
貴重な時間を割いて、これを読んでくださってるかたは、一通り、『もしドラ』を読み終わった、という方だと思いますので、ネタバレ的なものを避けたい方は、『もしドラ』を全部読んでからお付き合いください。
みなみの間違い
『プロセス』と『結果』ということで、夕紀とみなみの考え方は違ってしまいました。
ですが、おそらく、みなみは、マネージャーになってから、『結果』を間違えていたのではないかと思うのです。
どういう事かというと、そもそも、夕紀は、野球部に『感動』を求めていたのであって、『甲子園出場』を求めていた訳ではないからです。
幼いころに、みなみのサヨナラヒットをみて感動し、もう一度その感動を味わいたくて野球部のマネージャーになったのであり、程高の野球部の活動を通じて感動することが『結果』な訳です。
で、みなみが目指すべき本来の『結果』とは、幼いころ、野球のおかげで味わった挫折感から救ってくれた夕紀のためになることをする、夕紀が喜ぶ事をする。その結果、夕紀が喜んでくれる、だったはずです。
その『結果』のための『プロセス』として、野球部のマネージャーになったのであり、野球で感動するために甲子園を目指したはずです。
みなみにとっての最大の顧客は夕紀であり、夕紀が求めているものは野球で味わう『感動』です。それが、いつのまにか、甲子園出場が『結果』であり、その過程で起こる『感動』が『プロセス』になっていってしまった訳です。
まるっきり、反対の解釈です。
言い方が悪いのですが、『程高の野球部を利用して、夕紀に野球での感動を味わってもらう』のが本来の目指すべき結果です。
ですから、優勝できなくても、夕紀が望む『野球部』であれば、それは十分な結果をもたらしているのです。
ところが、みなみはそう思わなかった。
夕紀のために野球部のマネージャーになった。そこまでは間違ってません。
夕紀が感動するためには、勝てる野球部にしなければならない。これも間違ってません。
直感的に『甲子園に連れていく』と決める。甲子園出場ということになれば、夕紀は絶対感動するでしょうから、間違ってません。
まあ、これはひとによって違うかもしれませんが、この段階では、あくまでみなみが内に秘めた思い、というか、決意ですから、間違いとは言えません。
それで、勝てる野球部にするためにはどうするか?顧客の定義、選手のマーケティングなどを夢中でやっているうちに、何となく間違ってきちゃったんですね。
『最大の顧客』である夕紀のためにマネージャーになったのがそもそものスタートでした。
みなみにとって、夕紀だけを顧客として、その顧客を満足させるための手段としての野球部強化、ならよかったんですが、『マネジメント』と出会ったがために、組織である野球部の方に意識が向いてしまいました。
考えの主体が、野球部、あるいは野球部員になってきちゃってるんですね。
野球部の顧客は誰か?野球部は何をすべきか?って考えちゃったんですね。
つまり、『顧客は夕紀で、夕紀に喜んでもらう』のが原点だったのに、実際に野球部のマネージャーになり、『マネジメント』と出会い、組織経営の方に意識が行ってしまったために、『夕紀に感動を味わってもらう』ついでに、『野球部が強くなる』はずが、『野球部が強くなって甲子園に出場する』ついでに、『夕紀に感動を味わってもらう』ということになっちゃったんですね。
物語も終盤になってくると、そんなみなみは、冷静な夕紀から見たら、やや『暴走』気味に映ったのかもしれません。
空恐ろしいほどに野球部はみるみる強くなっていく。それどころか、程高のほかの運動部、ブラス、家庭科部なんかも巻きこんで、どんどん規模が大きくなっていく。
『マネジメント』には、『市場地位の目標』という言葉が出てきますが、市場において目指すべき地位は、『最大ではなく最適』であると物語にも引用されているように、夕紀にとっての『感動』の『最適』を、すでに大きく超えて、本来、夕紀が望んでいた事とは微妙にベクトルが狂い始めていたのではないでしょうか。
野球嫌いだった親友が、いまや、野球部のマネジメントに夢中になっている。
そして、その野球部が、みるみる強くなってきている。
夕紀にとっては、これだけで、十分だったのではないでしょうか。
だからこそ、結果的にみなみとの最後の会話となった病室でのやり取りは、みなみにわかってもらいたくて、結果とプロセスの話を切り出した。
私は、もう十分感動してるよ。もう、十分『結果』は出てるんだよ。もう私は長くは生きられないけど、求めていたものをみなみからいっぱいもらったから、感謝してるんだよ。
そういうことを伝えたかったのに、みなみには、そんなのプロセスであって、結果ではない、と言われてしまいました。
夕紀はさぞかし残念だったことでしょう。おそらく、最後になるかもしれない会話の中で、遠回しにではあるけど、みなみに伝えたかった思いをぶつけたのに、やんわりと否定されてしまったのですから。
きっと、みなみもあとでこの事に気付いたからこそ、自分に嫌気がさして、あの爆弾発言につながった訳です。
『夕紀が死んじゃったら、甲子園に出場できても、意味がない』
これは、ある意味、正解です。
ここで、自分の間違いに気づいたんです。元々の出発点は、夕紀あっての野球部だったはずなのに。
ところが、皮肉にも、そんなみなみのマネジメントの効果で、野球部は西東京大会で決勝まで勝ち進んだ訳です。
もう、訳がわからなくなって、走って逃げだしたい気持ちもわかります。
みんなは、『野球嫌いを隠してマネージャーをやっていた』ことがバレていたのに、知らんぷりして普通に接してくれていた。また、自分だけが知らずに一生懸命にやっていた。これはもう、パニックになりますよ。
その陰には、夕紀のお見舞い面談が鍵となっている訳です。
一番最初のお見舞い面談のころは、夕紀もそんなに体調も悪くなかったし、ちょっとした『秘密の作戦』的な要素もあったりで、きっとノリノリで取り組んでいたと思います。
みなみに伝えたい情報(監督とか、文乃の事)もあったりで、あとで、夕紀の母親が言ったように、充実した、楽しい時間を過ごしていたと思います。
でも、みなみが同席しなかった最後のお見舞い面談では、きっと体調的には辛かったはずで、自分の死期というものを何となく自覚し始めていたのではないかと思います。
だからこそ、選手たちに、『遺言』的な事を伝えていたのだろうと想像します。
みなみは今、ちょっと暴走気味だから、みんな、フォローよろしくね、という事です。
『私に何かあったら、きっとマネージャーをやめるって言うから、止めてほしい』
『野球嫌いなのに、私のためにマネージャーをやっている』
それと、最大の遺言である、『自分が野球を好きになったエピソード』を祐之助に伝えたりとか。
自分は病室から出られない夕紀に出来る、野球部、選手、みなみに対する、精いっぱいの貢献だったんですね。
これが程高ナインの心に響いた。それが、決勝で勝てた要因だったんだろうと思います。
描写的にも、相手校の方が実力は上でしたから、あとは、気持ちというか、目に見えない力でもぎ取った勝利です。
文乃に連れられて決勝戦のベンチに入ってからのみなみの心の変化は、(程高野球部の)野球によってもたらされた感動でした。
これが、夕紀が望んでいたことだったんだ!
結果的には、夕紀のおかげで甲子園出場を果たした。
夕紀を感動させるはずが、自分が感動し、夕紀に甲子園に連れて行ってもらった。
そんな感情がみなみにはあったのではないでしょうか。
原作には描かれていない場面ではありますが、NHKのアニメでのラストシーンで、みなみはポニーテールをほどいて、夕紀の麦わら帽子をかぶっていました。
この辺はぐっときましたね。
自己目標管理
『もしドラ』には『【エッセンシャル版】マネジメント』からの引用部分がたくさん出てきます。
わたしは『もしドラ』も『マネジメント』も読んでいます。何度となく。
そのなかで、あれ?っと思う部分があったんです。
それは、『もしドラ』第5章135ページの、『【エッセンシャル版】マネジメント』(24 自己管理による目標管理)140ページからの引用部分と、
おなじく第6章175ページの、145ページを引用している部分。
『【エッセンシャル版】マネジメント』中で、『目標管理』となっているところが、『もしドラ』では、『自己目標管理』として引用されているのです。
なんで?自分が持っている『【エッセンシャル版】マネジメント』と、みなみがよんでいた本は違う本なのか?
上田先生の翻訳が版によって違うのか?
これがどうしても気になって、直接、ダイヤモンド社さんに聞いてみることにしました。
すると、担当の方から、大変丁寧な回答を頂きました。
この場をお借りして、改めて御礼申し上げます。
その一部をご紹介します。
『マネジメント』の翻訳に関しましてご説明をさせていただきます。
ご指摘いただいた通り、翻訳者である上田さんの翻訳そのものが「目標管理」から「自己目標管理」と変わっております。
原文は「management by objectives andself-control」となっており、目標によってマネジメントすることと、そしてあくまでも自分自身で管理することがセットになっている概念です。
しかしながら、一般に「目標管理」としてしまうと、目標によるマネジメントの部分が強調されてしまい、後者の「自分で管理する」という意味合いがまったく抜け落ちて説明されております。
本来は、自分自身が主体的に目標を達成するために、それを具体的なここの小さな目標に落とし込んでいく手法です。
日本では「目標管理」という言葉によって、上司が部下を管理するための経営手法として広く使われてしまいましたが、そのことをドラッカーさんご自身も嘆いておられました。
そのような背景があり、上田さんの訳語も、目標管理における自己管理の部分をきちんと示すために「目標管理」から「自己目標管理」へと変わってきております。
『マネジメント[エッセンシャル版]』は2001年刊行ですが、そのときの訳語は「目標管理」でした。
これをすべて「自己目標管理」に改めるのは、実務的な面から困難が生じてしまうため、そのまま現在に至っております。
しかし、エッセンシャル版の元になった『マネジメント』の新訳であるドラッカー名著集『マネジメント』(全3巻、2008年刊行)では「自己目標管理」を使用しており、おそらく『もしドラ』の岩崎さんはこちらの新しい訳を採用されたということだろうと思います。
という事でした。
『もしドラ』でみなみが読んでいたのは、間違いなく、『【エッセンシャル版】マネジメント』なんですが、読者に伝えたい肝心の内容がドラッカーの意図しないものになったのでは本末転倒ですから、あえて、エッセンシャル版よりも新しい、より、ドラッカー教授の概念に近い『自己目標管理』という言葉に置き換えた、という事らしいのです。
きっと、上田先生、岩崎先生のあいだで、この事に関するやり取りがあったのではないかと思われます。
上田先生が、翻訳に際して、ドラッカー教授にしつこいほどにFAXで聞いていた、という事を、岩崎先生も御存じだったでしょうから、おなじように、この部分の引用として、どちらの言葉を使うべきなのか?を聞かれた事だろうと思います。
小説としてのつじつま合わせよりも、ドラッカー教授の伝えたかった概念の方を優先させた、という事でしょう。
この、『目標管理』と『自己目標管理』については、ダイヤモンド社のインタビュー記事のなかで、上田先生が次のように答えています。
(インタビュアー)
しかしながら、それだけ日本人に親しみやすく、ドラッカーが「組織とマネジメントに関する私の研究を助けてくれた」と言った日本でも、彼の経営思想のいくつかは間違ったままで定着してしまったというケースがあります。(上田)
そのとおり。たとえば、「目標管理」(MBO)があります。
ドラッカーの目標管理は、「自己目標管理」であり、現在の日本企業で行なわれているものの少なからずが、似て非なるものです。
彼が言う目標管理は、現場で働く者は部門全体の目標を念頭に置き、上司とのやり取りを通じて、自分で自分の目標を決めるのです。
ところが、時々目標を上から与えて管理するという、ドラッカーの考え方とは似ても似つかない制度になっています。
本来は、主体的なものなのです。
『週刊ダイヤモンド』特別レポート【第80回】 2010年3月29日
ドラッカー学会代表 上田惇生インタビュー(http://diamond.jp/articles/-/7719?page=3)より引用
やはり、上田先生にとっても重要な言葉だったんですね。
つまり、自分自身で目標管理することが大切であり、目標とは、他人に管理されるべきものではない、ということ。
この引用が登場するシーンは、程高野球部がみるみる実力をつけていく大事な場面ですから、ここは『自己目標管理』が重要な訳です。
ついでと言っては何ですが、同じインタビューの中で、上田先生は『もしドラ』についても触れています。
これまで、私は青春小説というものをあまり読んだことがないせいもあり、7回ほど目がしらが熱くなりました。
なにより、ドラッカーの理解が深いことに感心しました。
この小説は、ケーススタディとしても読めるので、関連書の中では、圧倒的にいちばんだと思いますね。
『週刊ダイヤモンド』特別レポート【第80回】 2010年3月29日
ドラッカー学会代表 上田惇生インタビュー(http://diamond.jp/articles/-/7719?page=4)より引用
そうなんです。
『小説』と言われていますが、『ケーススタディー』なんです。
物語としては、多少つじつまが合わなかったり、文章がぎこちなくてもいいんです。
『もし』であり、『ケーススタディー』ですから。
だから、何度読んでも違う発見、違う解釈が出来て面白いんですよね。
粗探し的な発見
つじつまが合わなくてもいい、と書いておきながらなのですが、前回に引き続き、どうしても引っかかるセリフをご紹介します。小出しにするような事でもないんですが。
それは、みなみの『浅野慶一郎』の呼び方。
物語の最初の方(たとえば、40ぺーじあたり)では、『浅野くん』でしたよね。
終盤(223ぺーじあたり)になると、『慶一郎』って、下の名前で、しかも呼び捨てになってるんですよね。
気になりませんか?
私は非常に気になります。ふたりの間に、何かあったのかな?とか。
前回からの宿題
『才能ではない。真摯さである。』
で泣くか?
というのが前回からの宿題です。
全然わかりません。
少なくても、私は泣きませんでしたし、泣くとも思えません。
おお、そうなのか、そういう事なのか、という、目から鱗的な感動はするかもしれませんが、多分泣かないと思います。
みなみはなぜ泣いたのか?
これは、岩崎先生も泣いたから、なんでしょうけど、気持ちの入り方一つでは泣けるのかもしれません。
読者がこれまで歩んできた人生もそれぞれなわけで、泣ける言葉なのかもしれません。
私の人生が浅いから、泣けないのかもしれません。
でも、岩崎先生の原案ブログでもみなみは泣いてるんですよね。
だから、このシーンは、原案段階から一貫して泣くシーンなんです。
原案から一貫しているシーンとか設定は他にもありますが、このシーンは物語のコアな部分ですよね。
そこで、泣く。
原案ブログでは、
一つの啓示となってみなみちゃんの心に突き刺さる。心を裏返されたような気持ちになり、呆然と立ちつくす。身体がブルブルと震え、その瞳からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。鼻の奥がつんとして、喉からは嗚咽がもれる。
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら - ハックルベリーに会いに行く(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080711/1215741244)より引用
とあります。
言葉自体が心に突き刺さってるんですよね。
だから、何かを思い出したとか、そういう涙ではないみたいなんですよね。
もう、直感的な、自分でもなんで泣くんだかわからない涙なんですよね。
これからマネージャーになろうとしている自分には、最高の励ましだし、プレッシャーでもありますよね。
『真摯さ』が絶対条件なんですから。
真摯さがあれば、マネージャーになれる。
逆にいえば、真摯でないものがマネージャーになる事は絶対に許されない。
・・・でも、泣くかなぁ。
気持ちの持ち方だから、理解できないものは理解できないのかもしれませんが、ここのシーンを読み解けないのが、残念でなりません。
勉強不足、読み込み不足なのは私自身の責任という事で、また、10回くらい読んでから、考えてみる事にします。
何回も読む、という事で言うと、
『オーディオブック』はなかなかいいですよ。本を読まなくても、内容が頭に刷り込まれる感じで。
で、気になる部分を改めて活字で読んだりしています。
AKBの仲谷明香ちゃんの朗読です。荒削りですが、いい声をもっている娘だと思います。
自分の聴き方としては、朝晩の犬の散歩の際にヘッドフォンで『もしドラ』を聴きながら、というのが多いです。
リンクで宣伝等はしませんので(w)オーディオブックをご存じない方、気になる方は、検索してみてください。
と、いつものように最後は脱線気味で、なんだか、まとまらない文章になりましたが、賛成意見、反対意見等、コメントいただけましたら嬉しいです。
一行でもいいですので。
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