2011年5月2日月曜日

「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」の読書感想文。

原作本販売数がが258万部を超え、NHKでのアニメ放送1週目が終わり、前田敦子主演の劇場版公開を来月に控えているというこの時期に、
まず最初に原作本を読み、次にオーディオブックを聴いて、現在アニメを見ている所であり、もしかしたら映画も見に行っちゃおうかなぁなんて考えてる、作者の岩崎夏海さんと同年齢の私が、
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(以下、『もしドラ』)の読書感想文みたいなものを書いてみようと思う。



感想文なので、あえてアマゾンへのリンクとか入れてません。(*^^)v

これから『もしドラ』を読もうとしている方は、つづきはネタバレ注意でお願いします。





まず、『もしドラ』のアイディアは、原作本のあとがきにもあるように、岩崎さんのブログでの『原案』からスタートしている、というのが大前提。

0006「中高生のためのマネジメント入門~今日からあなたがチームの経営者~」 - ハックルベリーに会いに行く
(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080519/1211162658)


もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら - ハックルベリーに会いに行く(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080711/1215741244)

2008年7月のこの段階では、書かれている以上の深いストーリーはなかったのだと思う。
このアイディアに沿う形で、ダイヤモンド社の編集の方から依頼を受けて、
岩崎さんが、中高生のためのマネジメント入門書として、『ドラッカー』や『マネジメント』を広く世の中の若い世代にも知ってもらいたい、という思いがあって、後付け的にストーリーを組み立てていったのだと思う。
『もしドラ』は、ドラッカーの「布教ツール」としての一面もあるのではないか。(表現が違うかな?)
だとしたら、それは大成功で、それまでドラッカーを知らなかった層に対しては、抜群の効果があったと思う。

私もその効果をもろに受けたひとりである。

私は、『もしドラ』を好意的にとらえていたのだが、『もしドラ』の設定やストーリー、さらには文章の構成とか書き方なんかに批判的な人がいることを知ったので、
この感想文には、一人の『もしドラ』ファンとしての『弁護』的なものと、もしかして、こんな風に読めば設定に違和感がないのではないか、という提案的なものも含まれている。

『もしドラ』という小説は、その名の通り、あくまで、『もし』の話なので、その、『もし』を、実際の世の中で起こさせるとしたら、と考えたとき、無理を承知でも最大公約数的にストーリーを組み立てていかないとまとまらない。
なるべくリアリティーがあるストーリーを目指すとしても、実際の『現在の日本』でつじつまが合うな話にする必要はない、ということ。
本の中に書かれていない設定は、自分の好みで、好き勝手に作っちゃえばいいのだ。

ちなみに、私だとこんな感じ。

程久保高校は進学校で、基本的に生徒は勉強ができる。頭がいい。知能指数が高い。
で、きっと、それは、ガリ勉で得た頭の良さではなく、生まれ持った才能である。
中3で慌てて猛勉強しなくても、普通に程高に入れるレベルの生徒が集まっている学校なのだと思う。

余談だが、頭がいい子どもは、スポーツもできる。スポーツが出来る子どもは頭もいい。
ここで言う、頭がいい、とは、学校の勉強が出来る、ということではなくて、『人に言われたことを理解する能力』を指す。

コーチのアドバイスをすぐに自分の体で表現できる子どもは、スポーツでも伸びる。

話がそれたが、そういう『頭の良さ』を持ち合わせているから、『マネジメント』を読み解く事が出来る。そうでもなかったら、普通の女子高生が『マネジメント』を読むことに違和感が出てしまう。

だったら、せめて大学の野球部ならよかったのか?ということになるが、原案が『高校野球の女子マネ』というところから始まっているので、ここは高校にこだわりたい。『高校野球』と『女子マネージャー』と『ドラッカーのマネジメント』を結び付けるのが最初のアイディアだったからだ。

登場人物の高校生たちは、みんな、はるかに通常の高校生のレベルを超えている。(自分の経験比)
そして、そのレベルが高い高校生たちは、みんな、素直にみなみの提案を受け入れている。

『おめーふざけんな』とか、『そんなのやってらんねーよ』とか、『ウザってーマネージャーだなー』とか言わない。

だけど、みなみがそういうキャラだと言ってしまえばそれまで。

だれも逆らわない女子。
きっと可愛くて性格が良く、誰にも笑顔で接する女神のような女子高生なのだろう。

そこで、疑問点。生徒はみなみと同レベルだから許すとしても、一見、みなみの『出る杭は打たれそうな行動』に対して、他の先生達や学校側がなんとも言わない。
普通、いきなりこれだけの動きが始まったら、他の部の顧問の先生や、学校側が何らかのプレッシャーをかけてくるとか、嫌がらせするとかしそうなもんだけど。
(それは、古い学園ドラマの見すぎか?)

それがないというのは、もしかすると、陰で『ある力』が働いて、陰でみなみを操っていたのかもしれない。

例えば、ある人が、程高野球部の改革を依頼されたとする。依頼人は校長とか、程高野球部関係者とか、そんな感じで。

その人は、自分で手を下さずに、ある生徒を使って、ドラッカーのマネジメントを参考書として野球部改革をしたら面白い、
と考えて、その考えを実行することにした。

その人は、ドラッカーのマネジメントを読み解いている。どこかの経営者。で、自身でも、程高野球部の現状を何とかしたいと思っている。

その人は、誰に自分の仕事をさせようかと人選する。そして、夕紀とみなみの関係、みなみの少女時代の事なんかを知っていて、みなみに野球部改革をさせようと決めた。そして、学校側にも、みなみの行動や提案にすべて無条件で従い、協力するように依頼した。

そして、その人は、たぶん、みなみのごく近くにいる人物。いつも行動を陰で見守りつつ、次の行動のヒントを与えたり。
という伏線があれば、学校関係者がみなみを放置しているのはなぜ?という疑問は解消される。
(これは、疑問に思ったので、自分なりの解決策として、こういう伏線を考えた、というだけの話。)

でもそれだと、またまたみなみは自分だけが知らない状況で動いていた事になって、ちょっとかわいそうではあるけれど。

あと、粗探し的で申し訳ないが、どうしても納得いかないというか、違和感があるセリフがあって、それは、みなみと夕紀の病室で会話する『もしドラ』22ページの野球部の現状について話しているシーン。

まじめに練習に来ない選手について、夕紀が、

「この時期はいつもそうね。去年もそんな感じだったもん」

って言うのだが、このセリフでは、複数年マネージャーを経験した人の発言になってしまう。
夕紀は2年生で、現在入院中という事は、そういう状況は1年生の時に1回経験しただけだと思う。

なので、このセリフは、

「(私も先輩に聞いたんだけど)この時期はいつもそうなんだって。去年もそんな感じだったもん」

というのが自然なのではないだろうか?

すみません、どうしてもこの部分が何回読んでも引っかかるので。

そして、この物語のひとつのキーワードになっている『真摯さ』について。
これが一番重要なポイントなのかもしれない。

みなみが、『もしドラ』18ページあたりで、『マネジメント』の130ページ、マネジャーの資質について書かれている部分、
『・・・ 才能ではない、真摯さである』
という所を繰り返し読みながら、「......真摯さって、なんだろう?」
と考えたとき、自然と涙が出てきて一人で泣きじゃくる、というシーンがある。

このシーンは、岩崎さんのブログでの原案でも登場する。ということは、非常に重要なシーンなわけだが、実は、この涙の訳がまだよくわかっていない。

小説なのだから、読み手によってそれぞれの解釈があるのであり、正解はないのだろうけど、何回読んでも、自分で納得がいく読み解きが出来ていない。

自分にはマネージャーとしての才能がないんじゃないか、と思っていたところ、
ドラッカーに「真摯さがあれば、才能がなくてもマネジメントできるから大丈夫」、と励まされて涙がこぼれた、
というのが、表面的な読み方だと思うが、それだけで涙が止まらなくなるだろうか?

ブログの原案では、みなみの少女時代の野球に対する挫折、野球から受けた『裏切り』に一切触れていない。
また、かつて、みなみ自身が『見る側』として、高校野球から感動をもらっていた、という形になっている。
そういったことを踏まえると、我ながら多少深読みしすぎで、正解ではない気がするが・・・
今のところ、ひとつの考え方が、これ。

「才能ではなく、真摯さが重要だというが、真摯に取り組んでも自分が望む結果にならなかった少女時代の事を思い出した」

少女時代のみなみは、野球に対しては、才能も、真摯さもあった。
相対的な『才能』である結果としての『レギュラー選手』は、ほかの選手の成長で『平凡な実力』である『控え選手』になってしまう。
それでも、野球に対する真摯さはあったはずなのに、信じて目指していた『プロ野球選手になる』、という『結果』に裏切られてしまった。
そして、野球は反吐が出るほど嫌いになった。

なのに、ドラッカーは、その野球に『マネージャー』として再度向き合うことになった自分に、また、『真摯さ』を要求している・・・

でも、自分は、今はこの本に書かれていることを信じて進んで行こうと決めた。
選手としては、真摯さよりも才能。マネージャーとしては、才能ではなく真摯さ。
そんな思いが色々と交錯して、感極まったのではないだろうか。

『もしドラ』197ページからの「25」で、結果ではなく、プロセスを大事にしたい、といった夕紀に、『プロセス』ではなく、『結果』にこだわったのも、表面的な『マネジメント』の読み解きだけではなく、こんどこそ、『真摯』に取り組めば、

『《夕紀を喜ばせるために》マネージャーとして頑張り、程高野球部を甲子園に出場させる』

という、『自分が望む結果』を得られる、と自分自身で信じたかったのではないか?

その結果、『野球部を甲子園に連れていく』という、一つの結果は得られた。
しかし、もうひとつの結果であり、どちらかと言えば、こちらの方が重要であったはずの
『夕紀のために、夕紀が喜ぶように』
という結果を得られたのかどうかは、みなみの心の中でしかわからない。

『結果』は、表面的に見えるものだけとは限らないからだ。

裏切られたと思うのか、結果が出せたと思うのか。
自分が知らない所では答えが出ていたことを、自分が知らなかったために『真摯』に取り組んでいた。

『真摯』に取り組まなくても、結果がわかったいたことを『真摯』に取り組んでいた。

この点は、すごく考えさせられる。

でもきっと、これも違う気がする。自分で書いていて、なんか違うな、と思っている。
また違った、自分でももうちょっとましな考えが出来たら、その時はまた感想文を書くことにして、本日現在は、こんなところにしておきたい。

最後に、現在放送中のNHKのアニメ『もしドラ』に2点ほど突っ込ませていただく。

総合的には好意的に拝見している。原作のひとつひとつの場面をうまく組み合わせて作られていると思う。
そして、オーディオブックで朗読を担当した、AKB48チームAの仲谷明香が文乃の声を担当。『え、あ、はい・・・』にも磨きがかかって、さらに成長した彼女がいい味を出している。

でもでも、どうしても突っ込みたいので。

一つ目が、加地監督のキャラについて。

これは、原作で読む限り、もうちょっと、おどおどキャラかと思っていたので。
それが、ノーバント・ノーボール作戦という『イノベーション』を通じて、彼もまた、選手と距離を置くようなおどおどした監督から、立派な『マネジャー』へと成長していく、という風に理解していたので。

アニメだと、孤高な俺さま風キャラに見えてしまって、違和感があるのです。

ふたつ目が、程高柔道部の主将が女子だった事。
陸上部は女子キャプテン、というのは原作にもあるのだけど、柔道部キャプテンは男子だとばっかり思っていたのでびっくり。
ピッチャーの二人は下半身のトレーニングで柔道部に出向く訳だが、この場合、普通に考えて、相手するのは男子じゃないかな?
ただの女子部員で、キャプテンじゃなかったのかな?だったらなおさら、男子がお相手するよなぁ、普通は。

そして、実は、アニメ版には、原作と違うラストが用意されているのでないか?
という、淡い期待を抱きつつ、今日から第6話以降を楽しみたいと思っている。

と、勝手に色々と書いてみたが、
まあ、一読者の、勝手な感想文ですので。


2011/08/27追記
感想文の続きを書いてみました。お時間があれば、お付き合いください。
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」の読書感想文その2。

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